昭和40年07月12日 夜の御理解



 今日は、美登里会でございましたから、何時ものメンバーの方たちが集まって、熱心に、信心の共励が合っておりました。私も、終わりごろだと思いましたけれど、四時過ぎごろから、ちょっと二階に上がらせてもらいました。そしてしばらくお話させて頂いてから、私、下に降りてきたんですけれども、そのあとに、会員の方たちが、もうほんとに、もう有難いですねえと。
  先生が今おい出て上がってきてから、今ここでどういう話がありよるとも分からんとに、それをまるきり見抜きのごとある聞き通しのごとある。その会議と先生の話がぴたっと言ってですねと言うてから、もう感激したと言うてから、原さんからお届けがあってます。ね。ですから皆さんもその御理解を頂くという事。御理解がどんなにその素晴らしい神ながらのものであってもです。ははぁあれはあの人に言いござるとばいなと。あれは、どこの誰それが聞かっしゃらな御理解というようなものではなくてです。
 もう、銘々の頂き方なんです。これが、何時もの場合でも、どんな場合でも、私のお話というのは、私のお話じゃないと、私自身がそう思うております。私自身が頂きよるんです。例えば、ほんなら、家内であり、子供であり、はあ、とおちゃんの話であったり、はあ、お父さんが話しよるとこういうたら、それはもう、幾ら何十年、朝晩それを、頂き通しに頂いておっても、なーにもなりません。
 ですからほんとに、朝晩頂くものは頂くものほど、そこんところを心して頂かなければ、日々の信心の生活の上にです。それが本当に生き生きと現されてこなければ、値打ちはないです。昨夜家内が言うておりました。もうこの頃お父さん、私はその御理解頂く時に、眠りはおりますまいがち言うて、はあそげなこつかいと言うて気が付かなかったと。この頃その結局頂くことになってきたからなのです。
 今までは聞いておったんです。ね。だから頂くという気になったら、はあ今日は私に、神様はどういう事を教えて下さるだろうかと、こう思うから、それをやはりひもじいときに食べ物を頂くように、頂けれるのです。頂こうというその意欲なんですよねえ。まして今も申しますように、私がお話しをするところのお話、それはそのまま確かに御神意のままのものであり、御理解であり、ね。
 誰彼のものではなくて、私自身銘々が頂かなければならない事だということ。ね。同じ一切れの魚を頂きましてもね。こんな煮方があるか。おはしではねくり散らかすごつして頂く人。ほうもう久しぶり頂いた。ちょいとこの魚は美味しかったと。という人であって始めて私は、その魚が身につくと思うんですね。さその魚は同じなんですよ。野菜だけと限ったことでは有りません。ね。
 私どもの上に起きてくる一切の事柄がそうなんです。金が足りないなら金が足りないというう、例えば難儀その事は同じです。例えば同じ金額であっても良いのです。ね。ほんとに何時までこげな借金払いに苦しまんならんじゃろかというような頂き方の人。ね。おかげで少しづつでも払わせて頂くということが有難い。しかもそれがその恩義であれば恩義であるほど、自分に力を頂けておるほどの実感が頂けれるような信心にならせていただかなければ、ほんとの借金払いにもなるまい。
 その借金が自分の血に、肉にもなることも無い同じ魚でも、ね。はねくり散らかすようにして頂くような人。ああ美味しかったと言うて頂く人。そこが血にもなれば肉にもなるようにです。ね。信心が段々育っていく人はです。そう言う様な頂き方をするんです。ああまたあの御理解か言う様な頂き方なんです。そういう頂方ではいつまでたっても信心に血も肉も付いてこないです。
 丁度二階に今日上がらせて頂きましたら、秋山さんがこんなお届けをしておりました。もうほんとにあの主人の信心が立ち直って、しかも昨日のあの部長さんたちの発表のときに、もう私はお詫びする以外にないということが、一番目で本気で自分を愛しておる気であり、本気でこのことに取り組まなければならないという事を、なってきて夫婦の気持ちがぴたっと合って来た時です。
 もうそれこそもう何年前、いや十何年も前からこのことは神様が準備しておって下さったであろうかと。もう終戦と同時にこのことの準備がしてあっただろうと、言う様な事柄が昨日おかげになった。これこれだけはどうでもおかげ頂きたいと言うて、金額のことがですね、明日の13日会に間に合うようにおかげ頂けれるというわけなんです。ほっで、夕べ、夫婦でもう、それが有り難うしてたまらん。
 今まではそれが、夫婦でその話が出来なかった。ところがお父さんはあれがどうして、ほんなこっじゃもんのうち言うてから、ほんなこつじゃ無しであげん一生懸命で言われるかち言うてからその、申しましたから、もう二人で夕べはもう遅うまで二人で共励し合って、だからあれが明日はいる。そしたらどういうふうにしてお供えさせて頂くかと言うことを練り合ったというわけなんです。
 そっでん普通の熨斗袋にはとっても入らせんきん、もうどげなもんするかいち言うて、先生どげなもんでしょうかち言う。そるけん私が申しました。あの御茶屋に行くとこう大きな奉書紙でこう大きな太いとがあると、こうおってから水引もちゃんと掛かるごつなっとると。あれなら百万円ぐらいなら入るばのち、(笑いながら)私が言うた。折角なら、一生一度のことじゃろうもんて、そげなお供えは。
 だから、夫婦の思いを込めて、そうしてしたらどうじゃろかと。はあ御茶屋に行きゃありましょうち言うてから、今日はその、笑いながらですけれどもです。どう言う様にして、その思いを表現しようかという事を心に練っているんですよ。そしてその話を聞かれながら、今その原さんが参って見えてからですもん。先生私も先月も六月も御願いしてあったのがですね、二回に分けてそのお供えが出来たと。
 始めての方のまとまった金が、入ったときなんかは丁度昼ごろでしたでしょうか、私が下がろうとしておるときに、もうグーグーやって見えましたです。まあ兎に角その百円札もはいっとる、一万円札もはいっとるというごたる風で、もうそれこそよう閉め合わせんごつして、ここに持って見えたんですよ。そんときのことを原さんが言うておられるわけですたい。もうこれが入ったときには、もう早よもって行きたいと言う様な気でしたきん。もう熨斗紙もなからなければ水引も無い。
 ほんとにもう書いたその墨が、あんまり上から書いたけん、べたっち引っ付いたごたるふうな。お供えの名前でも書かせて頂いたんですけれども、ほんに私はあの話を聞かせて頂いて、私たちがするのはこげなこっじゃいかん、思いばちゃんと込めにゃいかんとこう思いましたと、こういうわけです。けれども原さんだって私が言うんです。問題は形が違っておってもです。
 片一方は御茶屋から、いわば奉書紙を買うてきてからさせて頂くということに、一生懸命。片一方はです。はいっとるものば、そのまま渡さんならんぐらいにです。兎に角早よう神様に喜んで頂きたいという一念が、一生懸命にそのお参りになって、お供えになっておるということ。問題はどちらに致しましても、おかげ頂いてお父さん有難かと、ほんとにおかげ頂いて有難いというものが、答え出ればそれでおかげなんだと。
 だから形のことでないことが分かるでしょう。形でこげんせんならんああせんならんということではないのです。その頂き方なんです。
 そのいただき方のここという時には、必ず有難いというものが伴ったものでなからなければいけない。いわゆる頂くならば、美味しいという頂き方でなからなければいけんということ。それは私達がですたい。こんなもんな煮方が悪かとかこんのは好かんとか、箸の先ではねくり散らかすような頂き方で、身に付くはずがないのですよ。魚は同じではありましてもです。
 食べる量は同じであっても、片一方はそれが筋肉になって肥えていくでしょう。片一方は、その実を食べてから、胃がんにどんなる風なこっじゃないだろうかと私は思うのです。ね。理屈はそうでしょうが。信心とはそこんところを分からせてもらう。いただき方。あらまた今日は御理解いただかんならんと思うたとたんに、座ったとたんに眠うなる。御理解が終わったとたんに、ぴしゃっと目が覚める。
 過去の例えば家内の頂き方はそんな頂き方をしとった。ところが私は気が付かなかったけれど、そげんいやあほんにお前は目を開けて聞きよるごたると、今日言うような事でございましたけれど。(一同笑い)ね。あれがお父さん目を瞑って頂きよるとじゃろが、あれは、心がねぇむなっとる証拠。けども、本気で頂こうと思うたら。先生がもう、一生懸命お話させて頂いておる、その表情でも、手模様でもです。ね。
 見ておらなければおられんのです、実を言うたら。そういう私は、頂き方なんです。同じ魚でも、頂き方一つで、血にも肉にもなるんだというお話でしたね。しかも、ほんなら、形の上においてはです。奉書紙に包もうが、新聞紙に包もうが、問題は、有難いという、やむにやまれんものがあれば、それでおかげだということなんです。
   おかげ頂かねばいけません。